おれのなまえは山田太郎。今年で35歳になる。おれが今いる場所は…。それは後で言おう。
まぁ、おれはごく普通のサラリーマンだ。いや、正確にはサラリーマンだったと言うべきか …。
おれは幼いころから、何かを自力で達成したことがない。何かを始めてもすぐに投げ出しちまう性格だ。そんなおれも、なんとか社会人になろうと会社に就職した。給料は高いわけじゃないが、なんとか一人でやってくには問題ない額だ。
おれは、こんな性格から生涯孤独だと思っていた。
ところがある日。おれはいつしか同じ会社の経理の前野琴美に惹かれている自分に気がついた。彼女はもの静かで控えめ人だった。めったに口をきいたことはないが、彼女のそんな雰囲気が気になったのかもしれない。
おれはダメ元で彼女を食事に誘った。おれなんかの誘いに乗るわけがない。そう思ってギャンブルに出た。しかし、意外にも彼女はオーケーしてくれたのだ。
食事に行っても彼女はずっと黙っていた。おれはこう尋ねた。
「こんなおれに付き合ってくれてありがとう。でも、おれとなんかじゃつまらないだろ?なんかゴメンね…」。
おれは申し訳ない気分になって、こんなことを言い出してた。
しかし、彼女はどうだろう。ただ黙っていたが、しばらくすると、そっと顔を上げた。そして少し恥ずかしそうに笑顔を見せて、こう言った。
「そんなことないです。とても…たのしいです…」。
おれは死ぬほどうれしかった。お世辞だっていい。おれは、ハハっと笑ってごまかしたが、胸がグッと熱くなるのを隠せなかった。
「おれは、この人を幸せにしたい。いや、ちがう。このひとと一緒に幸せになりたい」。
そのとき、人生で初めて強い信念のような、固い目標のようなものができた。そして、おれは確信していた。おれは変われると。いや、変わるんだと。
おれの意志は固かった。そしておれたちは結婚した。琴美はあまり物を言わないが、おれは、だんだん彼女の気持ちがわかるようになっていた。「こんなときは疲れてるんだ」とか「こんなときは放っておいてほいしんだとか」、「こんなときは寂しいんだとか」。おれたちは、特別な何かでつながっているんだ。
ほんとうに幸せだった。それから子どもも授かった。名は美幸という。
子どもが生まれたのは、結婚してから1年後だった。世間から見れば、典型的な良い家庭だろう。
だが、事はそうも順調にはいかなかった。琴美が病気にかかってしまったのだ。
おれの給料は少ないが、琴美は、おれたちの大事な子どもと家庭を守るために必死で主婦という苦行を背負ってくれていた。そして、なんとかやりくりして、厳しいけど幸せに生活していたのだ。
琴美が精密検査を受けると、病気の真相はすぐに明らかになった。
肺に腫瘍があるという。そう、つまり肺がんだ。おれは、「肺がんなんてタバコを吸っているヤツが自業自得でかかるアホな病」だと思っていた。しかし、日本には、非喫煙者でも肺がんに苦しむ人々が少なくないという事実を初めて知ったのだった。
なぜ…。なぜ琴美が…。おれたちは、これからじゃないか。これからずっといっしょに幸せになるはずじゃないか。悪い夢なら覚めてくれ…。おれは、自分の行き場のない怒りを抑えきれず、窓を殴ってしまった。
「ガシャン!」
もちろん、窓ガラスは割れた。その音で美幸が起きてしまった。美幸の泣き声を聞いて、おれは正気に戻った。まだ、終わりじゃない。おれはまだすべてをやっていない。
おれたちは、がん保険やその他医療保険に入っていなかった。そのため、琴美の治療費は非常に重くのしかかった。
おれの給料は手取り20万。こんなボロアパートでも都内にあるだけで1か月10万円もする。そして、生活費が8万くらいだ。残った2万は貯金していたが、それほど貯まっているわけでもない。
どうする…。おれは琴美の入院費、治療費などを払いながら、美幸の世話もしなければならない。おれの両親はとっくに亡くなっていた。兄はいるが、若いときにヤクに手を出して刑務所だ。おれには頼れる人はいなかった。
そんなとき、ある広告が目に入ってきた。
「在宅翻訳者で年収○○○○万も目指せます」、「英語ができなくても大丈夫」、「2か月でプロの翻訳者になれます」。
おれは、こんなのどうせハッタリだと思ってすぐにページを閉じた。
しかし、おれはその日の夜、布団の中で考えていた。
「確かに翻訳者なら自宅で仕事ができるから、病院で琴美の近くにいながら仕事ができるかもしれない」。
しかし、おれの英語レベルが低いのは自分でもわかっていた。中学のとき英語のテストで5点を取って以来、「おれは日本人なんだから、今後英語とは付き合わないで生きる」と勝手に宣言していたくらいだ。
「ダメだ。おれは英語なんてできないし、翻訳者なんてできるわけがない」。そう思って目を閉じた。
次の朝、おれは無意識にすぐにパソコンに向かい、例の広告のホームページを開いていた。そして、読み続けてしまった。
「年収○○○万キープのプロの翻訳者が一から教えます。経験なしでも大丈夫」
さらには、受講生の口コミまで書かれていた。
「トライアルに合格しました。本当にありがとうございました」。
「プロの翻訳者として、わずか2か月で月80万稼いでいます。ほんとうにありがとうございました」。
これは、ちょっとすると、ひょっとするのかもしれない。このおれだって、この講師に教わって必死こけば2か月ほどで、月収80万稼げるのかもしれない。
そう思った瞬間。おれは頭の中に幻想をめぐらせていた。
「月収80万なら、琴美にもっといいベットを与えてやれる」。
「もっといい治療を受けさせてやれる」。
「もしかすれば、この収入を証明できれば、もっとよい治療のために銀行からお金を借りられるかもしれない」。
この想像が頭を埋め尽くした瞬間、おれは我を忘れて申し込みページに進んでいた。
そして、受講料を見た。80万円…。おれたちには少し貯金があったが、80万には到底届かない…。
でも、80万さえ払ってプロの在宅翻訳者になれれば….。そして、1か月で80万稼ぐことができれば、すぐに元が取れるじゃないか…。
おれは、すでにサラ金ATMに走っていた。そして、無我夢中でカードを突っ込み80万を引き出し、講座に支払っていた。
そう…。ここからだ。地獄の生活が始まったのは…。
さっそく、この講座が始まったが。この講師が言うことは少しおかしかった。
「とにかく練習して、その練習を履歴書に実務経験として書け」というのだ。「それでは、ウソの履歴書をつくることになるのではないか」と思ったが、おれには質問などしている余裕はなかった。
「早く稼げるようになって、琴美のためにお金を貯めなければ!」。頭にはこれしかなかった。
おれは講師に言われるがまま、トライアルの練習とやらをひたすらやった。失敗しては、添削してもらい。また失敗しては添削してもらい…。これを繰り返した。
あるとき、いつものようにトライアルを受けると、前に別の会社で受けたトライアルと同じものがテストとして出された。胸が躍った。これなら満点だ!神がくれたチャンスだ。おれはトライアルの意味さえ忘れ、愚かなことを考えていた。
案の定おれは、トライアルに合格した。その会社の単価は平均より高く、論理的には1か月で80万にとどかなくても、70万くらい稼げるくらいのものだった。
おれは涙を流して喜んだ。そして、すぐに琴美に報告した。
「これでおまえにもっと良い治療を受けさせてやれる!もっといいベッドに移してやれる!」
でも、琴美は心配そうだった。そしてこう言った。
「私のために無理してない?私は大丈夫。いつもの普通の生活が私にとって一番幸せだったの。だから、これ以上は何もいらないんだよ…」。
「おれは、涙を流してこう言った。ごめんな、琴美。おれがもっと早くなんとかしれやれればよかったんだ」。
「おれたちは、これからもっともっと幸せになるんだ。だから、おまえには、治療に専念してほしいんだ!」。
おれは、絶対にうまくやれると思った。いや、そう思い込むしかなかった。そして、今の会社に辞表を出した。
それから、おれは超ハードに仕事をこなしていった。1日12時間以上にわたり翻訳し続けた。
「とにかく稼ぐ」、おれにはそれしかなかった。
3週間ほど、仕事を行ったところでトラブルが発生した。「クライアントのレビューアーから苦情が来ており、提出した翻訳の品質では支払いはできない」というものだった。
「そんなバカな。おれはトライアルに合格しているんだ。そんなわけはない!」。
そう思ったが、聞く耳を持ってもらえなかった。
おれは全身の血の気が失せた。おれの必死の3週間がすべて無駄になったのだ。会社まで辞めて睡眠時間を惜しんで仕事をし、琴美の介護も行い、子どもの世話もしていた。既に満身創痍だ。しかし、おれの努力はすべて水の泡。しかも収入はゼロ…。
人生ってなんだろう。
すると、おれはサラ金のことを思い出した。80万も借金してしまった。しかも、利子は年率15パーセント。
おれの夢は音を立てて崩れ去った。そんとき、さらに病院から連絡が入った。
「奥様の病態が急変しました。すぐに来てください!!」
おれは、まだ幼い美幸を抱き、病院へと走った。
そして、ついたとき。妻は最後の時を迎えようとしていた。
「ごめん、おれ…。なにもできなくて、また失敗して…。ほんとうに…」。
おれは泣き声混じりで叫んでいた。こんな父親にびっくりした美幸は大声で泣き始めた。
「あやまらないで。わたしは、あなたががんばってくれただけで幸せなんだから…」。
そう言うと、琴美はもう返事をしなくなっていた。
おれは…。
いや、これは全部、あの講座がいけないんだ。あんなものさえなければ…。
おれは、またサラ金ATMに走り、さらに50万を引き出した。
そして、私立探偵を雇い、講座の関係者どもを見つけ出してもらった。
うへへへ、おれにはもう何もない。復讐してやる…。
おれは、ナイフを手にとり、事務所に乗り込んだ。
「このやろぉおおおおおお!!!」
「ちょっと、なんだ君は!?だ、誰か警察を!」
おれはすぐに取り押さえられ、そのまま逮捕された。
そう、おれは、妻を助けられなかっただけじゃなく、殺人未遂まで起こしぶち込まれてしまったのだ。こどもは、施設にあずけられた。
おれのなまえは、山田太郎。歳は35。現在、服役中の身だ…。
このお話はフィクションです。実際の人物や団体とは関係ありません。
いや、フィクションであってほしい。これからもずっと。
翻訳の勉強は誰でもできる。誰でも学べる。そして、誰にでも翻訳者になれるチャンスはある。ただし、実務翻訳者になるには、時間と労力が必要だ。お金を払ってもショートカットはないのだよ。地道に勉強しよう…。
ぼくが言いたいのはそれだけだ。うまい話にのって、お金を払う前に考えよう。そう、冷静に考えよう。
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